まるで息子の交代劇を見届けるかのような最期だ。トヨタ自動車の社長・会長を務め、経団連会長なども歴任した豊田章一郎名誉会長が97歳で死去した。日本はまた傑出した経済人を失ってしまった。
トヨタは先月、章一郎氏の長男の章男社長(66)が4月1日付で会長に就任し、後任に佐藤恒治執行役員(53)を抜擢(ばってき)する若返り人事を決めたばかりだった。技術者の佐藤氏は章男氏と同様にクルマ好きで知られる。技術者出身の章一郎氏も安心したことだろう。
「世界のトヨタ」育てる
岸田文雄首相は「トヨタを世界一の自動車メーカーに育て上げ、日本の自動車産業をリードした」と章一郎氏の功績を称(たた)えた。世界の自動車各社からも弔意が寄せられるなど、章一郎氏の存在の大きさが改めて浮き彫りになっている。
駆け出しの記者だったころ、章一郎氏に何度かインタビューする機会があった。若造に対しても真摯(しんし)に対応してくれたのが印象に残っている。その後、経団連会長や財政制度審議会会長としての記者会見などにも参加したが、その誠実な対応ぶりは変わらなかった。
記者団から日本経済や世界経済の先行きを問われると、たびたび自動車産業に例えながら答えてくれるのがご愛敬(あいきょう)だった。「私は技術屋ですから」と謙遜しながらも、日米貿易関係などマクロ経済の視点も忘れていなかった。
カリスマ性はないものの、製造業代表として現場をよく知る章一郎氏の発言には重みがあった。そして何より人の話をよく聞く温厚な人柄は、自動車業界だけでなく、財界や政界からも人望を集めた。
章一郎氏の経営者としての真骨頂は、トヨタを国際企業へと押し上げる契機となった海外進出の決断だろう。
1984年に米ゼネラル・モーターズ(GM)と提携し、カリフォルニア州に合弁工場を建設して現地生産を始めた。この決定は、「工販合併」を成し遂げた豊田英二氏との共同作業だったが、その後、日米自動車摩擦が吹き荒れ、両国間の外交問題に発展すると、章一郎氏はケンタッキー州にトヨタ単独による工場進出を決断し、産業界の立場から貿易摩擦の緩和に尽力した。
ものづくりに情熱注ぐ
世界企業として海外進出を加速させながらも、「ものづくり」への情熱は決して変わらなかった。名古屋大工学部を卒業後、東北大大学院でディーゼルエンジンなどを研究した章一郎氏は、効率的な生産方式で知られる「かんばん方式」を社内に定着させ、品質管理の向上に努めた。
「高い品質の自動車は精緻な生産工程から生まれる」との強い信念がその後、高級車ブランド「レクサス」の誕生にもつながった。
トヨタはいま、大きな進路変更を迫られている。世界の自動車産業は「100年に1度」とされる激動期に突入し、急速な電気自動車(EV)化や自動運転などが進展し、合従連衡が加速する中で既存の業界秩序は揺さぶられている。
章男氏は社長交代の記者会見で、「私はもう古い人間。若い人たちを適材適所で考え、新しいチャプター(章)に入ってもらうためには1歩引くことが大切だ」と世代交代の重要性を訴えた。変化の激しい時代には若い感性が欠かせないという思いがあったのだろう。
覚悟決め経団連会長に
トヨタ社長から会長に就く章男氏をめぐっては、次期経団連会長に担ごうとする動きもある。「経団連にはトヨタという存在が欠かせない」(財界幹部)との声が多い。「財界嫌い」とされる章男氏だが、最近では経団連の活動にも積極的に参加するようになっている。章男氏が共同委員長を務める経団連の「モビリティ委員会」には、200社を超える企業が参加する人気ぶりだ。
トヨタから初めて経団連会長に就いた章一郎氏も、当初は財界活動とは距離を置いていた。技術者として生産性や合理性とは相容(い)れない世界が苦手だったのかもしれない。それでも「お国のため」と覚悟を決め、当時の橋本龍太郎首相らとともに規制緩和の旗を振った。
トヨタは章一郎氏に続き、その後も奥田碩氏を経団連会長に送り込んだ財界の名門企業である。章一郎氏が経団連に託した日本の製造業への思いを、章男氏はどのように継いでいくのだろうか。(いい しげゆき)
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2023-02-19 06:00:00Z
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